−Fellows− 


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 柔らかな金色の髪に、小さな花を模した髪飾り。鮮やかな海色のワンピースに白い編み上げの靴という出で立ちで、娘は湖を眺め黄昏ている。湖の底から汲んだような青い瞳は、心ここにあらずといった風だ。
「機嫌、悪そうですね」
 背後からのどこか陰鬱な声に、細い眉がぴくりと動く。ゆっくりと振り向いて、娘は当然だろうと返した。受け取った男は長い前髪の下、特別感情の見えない顔で「ふぅん」とだけ相槌を打った。

−It is trouble−

 昼の国と夜の国がある世界。ありきたりな話だが、民族の違いや信仰の違いから両国は争い、相手を滅ぼそう、相手を掌握しようと長く対立してきた。だが、夜の国の王が温厚で、争いを避けようと働きかけてきたこの時代は、目立った戦争もなく表向きはただ豊かだった。
 もちろん穏やかな王から位を奪いたい輩や、眩い昼の国を我が領土にと望む者もいる。しかし、王は揺らがず「平和な時代」を築いていた。王の一人息子であるレイス・ファースト王子もまた、好戦的な気性と裏腹に、このところは王の手を煩わせる事件や争いは起こしていない。
 軍人の顔も併せ持つはずの王子は、戦いのなくなった日常を意外にも楽しく、自由に妹姫や付き人を振り回しながら過ごしていた。

 次回に備えて、という謎の目的の為に、レイスは女物の服を仕立てることを命じた。王子の付き人、秘書も兼ねる国一の魔法使いアズは、嫌な予感に散々レイスを追及した。が、納得いく答えを得られないまま、彼の行動を阻止できず応じてしまった。
 それが二十日ほど前の話で、今日その服が届いた。王子に出す前に普段通り検品をして、アズは心底嫌そうな顔でいる。不服だと態度で示すアズに、レイスは紅い瞳を細めて首を傾げた。
「何? どしたの?」
「これ、誰が着るのかいい加減知りたいんだけど。ユキちゃんのじゃないだろ」
 箱から出した服を睨み付けながら、よく見えるように高く掲げる。海色のワンピースだ。胸元は大きくなど開いておらず、丈も膝を隠すほどある。飾りらしい飾りは腰をわずかに絞める白いリボンと、いくつか付いたボタンのみ。
 袖のない腕をさらすデザインになってはいるが、「セクシー」より「清楚」と形容されるものだろう。品の良いお嬢さんが着るにはよく似合いだ。
 レイスの妹姫であるユキは、まだまだ幼い少女だった。彼女が着るには丈が余るし、印象も大人びていてらしくない。レイスがユキに着せるのはひらひら、ふわふわなレースのドレスがほとんどだから、このワンピースがユキ用ではないのが分かる。
 では、誰のための服なのか。彼が熱を上げている令嬢など、アズは聞いたことがない。次回のためが目的なら、前回があったのだろう。嫌な予感は大抵が当たるもので、嫌そうな顔も大概は嫌な顔になる。
 掲げられたワンピースを見て、レイスは満足げに頷いた。自分の部屋の自分のデスクで、偉そうにふんぞり返った男は長い指をアズに向ける。そして、世の女性を思うままにする美貌で、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「いい出来だな。それはライト嬢に着せる服だ。優雅に休日を過ごす用の贈り物なv」
 その声に、アズは持っていた服を投げ捨てた。

「まったくっ! あれはその場しのぎで仕方なくやっただけだぞっ。絶対にもう着ないからなっ!」
 苛々した気持ちを少しでも和らげようと、毒を言葉にして吐き出す。だが、あの後強引に押しきられた挙げ句、次の休日に……公務のない日を作って、遊びに付き合う約束までさせられた。
 レイスの計画ではユキが「ライト」に慣れるよう、三人でピクニックに行くのだという。「ライト」は表向きではレイスの恋人、ということになっている娘だ。彼女には大きな秘密があり、関わるとアズを不機嫌にさせる。その「ライト」とユキを仲良くさせたいらしい。城からそう遠くない湖まで、舟遊びをしに出掛けるというのだ。
 そうと決めれば王子の行動は早い。普段からこうあって欲しいと思うほど、書類仕事を前倒して終わらせた。そして、さっそく明日出掛けようと、ユキに弁当や菓子を選ばせている。
 城の厨房にまで入り込んで、兄妹がピクニックの準備に勤しむだなんて。何とも平和で穏やかな夜の国で、今一番穏やかでない青年は、廊下でかつかつと床を踏み鳴らしながら毒吐いている。
 自分がいない間の城のことで、部下の魔法使い達にいくつか指示を出してきた帰りだ。これから部屋に戻って、明日の準備をしなくてはならない。
 不満を垂らしながらも「敷物と救急箱と、雨具とそれから」など、律儀に王子や姫の世話を焼く。ワンピースについても早々に諦め、「着ないためにはどうすべきか」ではなく「いかに自分とバレないように着るか」に考えを巡らせる。
 部屋に戻るなり、考えを口に出しながら準備を始めた。手荷物にしなくても、魔法で呼び出すことはできる。ただ、すぐに呼び出せるようにまとめておきたかった。
 髪型はまたかつらか何かで隠して、化粧は腹心の部下であるユキ付きのメイドにこっそり頼んで。体型は、はて、どう誤魔化そうか。
「見た目は全部、魔法でなんとかしてしまおうかな」
「あんたは腰回りが細いから、さぞいい女に化けるんでしょうね」
 ぽろりと溢れた言葉に、平坦な声色が返事をした。思いがけない事態にアズは飛び上がり辺りを見回す。
 この魔法を張り巡らせた私室に入り込める誰かなど、一人としているはずがないのに。閉じた窓ガラスの脇で、黒服の男がつまらなそうに床を見ていた。見覚えのある姿にアズははっきりと舌打ちをする。
 真っ直ぐな黒髪は顔や首まで隠すほどに長く、感情の起伏に乏しい声や動かない表情と相まって、やたらと憂鬱な印象を持たせる男だった。城の使用人とは違う、動きやすさだけを重視した飾り気のない服を着て、動く闇のように彼は進み出た。
「……昏守か。どうやって入った」
「さぁ? 自分で考えて下さい」
 会話をする気がないのか。侵入者はただアズがまとめていた荷物に近寄ると、じっとそれを観察し始めた。訳が分からない、不愉快だ、と書かれた頬をわずかに引きつらせ、アズは青い瞳を不快そうに細める。
 この昏守という男は、水の属性に長けた魔法使いであるアズをいなすような力を使う。水に取り入り、水を利用する。氷魔法を使う男。だが、彼は魔法使いではないため、力比べを真正面からやればアズに分がある。
 それにしても、自分の結界をこう容易くすり抜けられては堪らない。これが敵だったら、主であるレイスやその妹を危険に晒すことになる。
 何を隠そう目の前にいる昏守は、かつてユキを亡き者にする為に放たれた暗殺者だった。今は当のユキに飼い慣らされ、彼女の言うことしか聞いていないお守りのようになっているが、明確に忠誠を誓った関係ではないため油断はできない。
「質問を変える。何の用だ?」
 背を睨み付けながら、隙のない声で問いただす。今アズの声に気付いたとでもいうように、男はちらりと荷物から視線を上げた。
 ゆっくりと音を立てず、猫のしなやかさで振り返る。この静かな動作から、彼は人を死にやる剣技を繰り出してくるのだ。アズは欠片の不審も見落とすまいと身構えた。
「あのユキって小娘、肌が弱いんですね」
 返されたのはあっさりとした言葉だけだった。何のことか分からず眉を寄せて見ていると、警戒しているのが馬鹿らしくなるほど分かりやすい動きで溜め息など吐く。
 昏守は再び荷物に目を向けて、手を伸ばし救急セットを摘まみ上げた。指でそれを揺らしながら、小さく首を傾げて見せる。温度のない金色の瞳が、視線だけ動かしアズを捉える。
「草か花か。いや、虫ですかね。犬猫家畜みたいな動物や食物にはないみたいですけど、庭で時々アレルギーの反応出すんですよ。痒がって腕を掻きむしる」
 城暮らしでは機会は少ないだろうが、屋外に連れ出すなら準備と覚悟が必要でしょ、と呟いて救急セットを手放す。言っている最中も感情らしい感情はなかったが、言葉の内容を汲むとユキへの心配だった。
 ユキにアレルギーなどというものがあるなんて、知らなかったし報告もない。まれに虫刺されが酷く赤く腫れたとは聞いているが、それがそうなのか。
 ぽとりと救急セットが音を立てて落ちた。アズはもっと詳しく話せと口を開きかけたが、これ以上関わりたくない、もしくは言いたいことが言い終わったのだろうか。昏守は声より早く姿を影に溶かし消えてしまった。
 忠告なんて、暗殺者上がりの男にしては随分と親切なことをしてくれた。ただ、もう少し愛想と分かりやすさを求めたいアズだった。さらにその数瞬後、口止めしたいことがばれたことに気付き、彼はこの上なく落ち込んだ。

 空は快晴。雲一つない夜空に星がキラキラと輝き、白い月は笑む口に似て半分に欠けている。足元は薄ぼんやりと影ができる程度に明るい。
 セシルに手綱をとらせ、一行は馬車でピクニック会場となる湖畔にやってきた。すでに広げた敷物には、バスケットから出されたサンドイッチや菓子が並んでいる。
 蜂蜜色の髪と瞳の少年が、準備万端だと満足げに頷いて湖に目を向けた。幼いと言えるほど見た目が若い彼だが、これで獣人……狼の姿に変身して戦う、立派な姫の護衛である。
 しかしながら、城で留守をするメイドに代わり、今日はセシルが何かと雑務をこなしていた。さらにもう一人、お忍びで遊ぶ王子と姫の護衛として引っ張り出された男が、無表情で敷物の上に座っている。
「……ひま」
「だったら適当に散歩でもしてきたらどうですかっ! そのまま帰って下っても構いませんよっ!?」
 頭からひょこっと生えた三角の耳を立て、セシルは不機嫌な顔で振り返った。視線の先では黒髪の下、金色の瞳が煩わしそうに少年から目を逸らす。
 陰鬱な雰囲気を纏い、長い前髪に表情の多くを隠し、昏守は怒った声を何事もなく聞き流した。セシルはこの多少年上なのだろう男を睨み付けてから、「こんな人にユキ様の御世話は任せられない」と吐き捨てた。
 不穏な空気が漂うピクニックの会場に、小さな足音が駆け足に近付いてくる。まるで月明かりを集め織ったような、薄いレースを重ねたドレスの少女が走ってきた。
 後ろからは年若い男女が、仲睦まじく連れ添い歩いてくる。男の方が手を口の横に立てて、よく通る声で叫んだ。
「ユッキー、足元に気を付けて走れよー。そのままコケて犬に突っ込んで、うっかりちゅーとかお兄様は許さないぞv」
 能天気な雰囲気と明るい笑顔と。御機嫌な様子のレイス王子の言葉に、白銀の髪を広げて少女が振り返る。意味が通じたか定かではないが、嬉しそうに微笑んでユキ姫は頷く。その背後では、普段なら言える文句を飲み込んで、セシルが耳の毛を逆立てている。彼は緊張に口を引き結んだ。
 艶やかな黒髪とワイングラスの底を覗いたような紅い瞳の兄、涼しげな銀髪と昼の空の蒼を封じた瞳の妹。どちらも「美形」の形容に相応しい顔立ちをしているが、似ている兄妹ではない。二人には血縁がないのだから、当然といえば当然だった。
 レイスは正真正銘、夜の国の王子だ。しかし、ユキは身寄りのないところを彼に保護されて、夜の国の王家に引き入れられた娘だった。そして、レイス・アズ・ユキは「ユキが昼の国の姫キルである」という秘密を隠している。
 今は落ち着いた関係ではあるが、かつて激しく戦った敵国の姫を身内とするなど、国王も国民もただで受け入れはしない。だが、姫という立場にあっただけで、ユキには国を滅ぼせる力も考えもない。国同士の戦いで慕い慕われた仲間を失い、独り敵国の最中に取り残されてしまった彼女をレイスは憐れんだ。彼は親友であり部下であるアズと全ての事情を隠すことを決めた。
 ただ、セシルはそのことを知らされてはいない。なので、彼が緊張しているのは「彼女」にこの秘密がばれることへの心配ではなかった。見慣れない女性、それもとびきり美しい淑女への照れが原因だ。何せ彼女、ライトはレイスやユキにも見劣るところのない絶世の美女だから。
「準備できましたっ」
 耳をぴんと立て、しっぽを嬉しそうに数回振って、セシルはお茶やお菓子の並ぶ席へユキを案内する。続けてレイスとライトにティーカップを手渡すと、彼は紅い瞳がじっと自分を見ていることに気付く。王子は、面白そうに目を輝かせ、行儀悪くあぐらを掻いた膝に肘を着いた。
「なんだよ犬、やたらお利口さんにしてるな」
 少年は虚を突かれた顔で一瞬怯むが、そんなことはないと首を振る。その後、誤魔化すようにユキの世話を焼き始めた。幼い姫はつまらなそうに敷物の上で寝そべる昏守に、ジャムを挟んだビスケットを差し出している。しかし、受け取ってもらえない。
「ユキ様っ、その人のことは構わなくていいんっスよっ」
「あ、分かった。お前ライト嬢があんまり美人だから照れてんだろ。ダメダメ、いい子にしててもこの人はやらないからな。俺の嫁だぞ? ってか昏守に八つ当たりとかみっともないから止めてくれる?」
 セシルが一生懸命に話題を逸らすのに、レイスはからかうのを止めない。にやりと笑って見せると、怒りも合わさりセシルの顔は赤さを増す。喉を鳴らし唸る少年に、少々慌てた様子で顔を上げ、ユキはチョコチップのクッキーを恐々と差し出す。彼女の怯えに気付いたセシルは、それを申し訳なさそうに受け取った。
「レイス様こそ、御冗談が過ぎますわ。嫁だなんて、わ、私ごときがおこがましい」
 ほほほと上品に笑う美女の、微かなぎこちなさ。昏守がちらりと目を向けるが、セシルは気付かない。星の囁くような慎ましい声に、耳を動かしクッキーをこぼした。
 ライトはレイスやユキ、セシルとも面識がある。レイスがあまりに奔放な毎日を送るので、彼の母である王妃が恋人探しのパーティーを開いた。その時、レイス王子が王妃への当て付けのようにパートナーとして連れてきたのがライト嬢だ。
 淡い金色の髪と湖の底から掬ったような青い瞳、細身で顔立ちも整っている可憐な女性は、あの一夜だけで国中の噂になった。パーティーが事件で中断されたことよりも、社交の域を出る女性関係の話がない王子が、堂々と連れていた娘の方が話題性は大きい。やっと王子も身を固める気になったのか、あれはどこの令嬢なのか。ライトにもアズにも、しばらく耳の痛い噂だった。
 あんまり周りが騒ぎ立てるからと口を開いたレイスは、「彼女は側近の遠い親戚筋にあたる娘で、少し前に紹介されて以来とても気に入っている。今後、良い仲を築きたいと考えている」と説明した。それによってまた噂は賑やかに国を騒がせ、しかしライト嬢が姿を見せたのはあの一度きり、詳細も一切浮かんでこなかった。
 噂が立ってしばらく経つが、彼女は人見知りのある深窓の令嬢だとか、王子は戦いには積極的だが恋に奥手なのだとか、今も言いたい放題言われている。だが、真実を知られたら、今までの噂以上に衝撃的な噂話で、夜の国は大揺れするに違いない。
 この謎の娘の正体、知っているのはレイスとアズだけだ。昏守も知っている一人だが、彼は事情を察して黙っている。セシルはというと、初見で違和感を覚えたものの気付いてはいない。「ライト嬢」は側近の遠い親戚筋という話で納得し信じている。
「ライト嬢」、彼女は側近の親戚などではない。側近……アズその人の変装した姿なのだ。
(いくら親類でも体臭が同じなんてありえない。それを姿と香水で誤魔化されるなんて、案外王子付きは馬鹿ですね。獣人がみんなこんな馬鹿だと思われるのは心外ですよ)
 昏守はようやくユキからビスケットを受け取り、金色の瞳で意味深にライトとセシルを見比べる。ライトはレイスに「おこがましくなんかないさ、ユキもこんなお姉さん欲しいよな」と微笑まれ、ぎこちない笑みをユキに見せた。
 昏守がビスケットを齧るのに御機嫌な少女は、ほにゃりと柔らかく微笑みレイスとライトにもクッキーを手渡す。王子の想い人は妹にもよく懐かれて、一見すれば和やかなピクニックになっていた。ただ、ライトの内心だけは穏やかとは程遠い。
 彼女はここへ来るまでにもかつてない緊張に晒されている。まず、城を出るレイス達をアズの姿で「自分は仕事が溜まっているから」と一人で見送り、魔法を使って先回りした。そして、今度はライトとして湖の近くで彼らを出迎える。
 若い年頃の娘が一人で待っている状況に、危機感がないと誰より騒いだのはセシルだった。だが、ここはレイスが「アズの親戚は揃って魔法が得意なんだ。いつも部屋から直に現地まで来るし、危ないお兄ちゃんなんかすぐ返り討ちにされる。ライト嬢も王宮に呼びたいくらい腕がいいから心配いらない」と助けてくれた。彼にしても、ライトの役は守って、今後もまだ使いたいのが本音なのだろう。
 この後は慣れない女役をずっと続けている。神経を使うお芝居が続いて、彼女は精神面でひどく疲れていた。この緊張の地獄から、少しでいいから解放されたい一心で、ライトはレイスとユキに突然の提案をする。
「そ、そうですわ。せっかく湖まで来たんですもの、もっと舟遊びをなさったらいかがでしょう。ユキ様もお舟、お兄様と乗りたいのでは?」
 ねぇ? とユキに首を傾げてやると、彼女は嬉しそうに笑顔を溢す。そして、自分が誘われることを避けるため、「私は船酔いする体質だから、岸から手を振りますわ」とライトは早口に続けた。もちろんユキは残念そうに顔を曇らせたが、これだけ健気に「ライト嬢」を熱演するアズを労ってか、王子は「じゃあ犬にオール持たせて、お兄様とライトに手を振ろう」と少女の手を引いた。
 そうして、湖に浮かべた舟をセシルが漕ぎ、その横で上機嫌に手を振る兄妹という構図が出来上がった。レイスが魚でも追わせたのか、随分と中の方まで漕ぎ出して、水面から湖を覗いたりしている。
 湖岸に立って手を振っていたライトだが、しばらくして静かに舟を見ていることにした。背後の敷物で寝そべっていた男が、のそりと起きて紅茶を啜る音が聞こえる。
 感情の希薄な金色の瞳が、そよ風に吹かれ佇む娘を見上げる。柔らかな金色の髪に、小さな花を模した髪飾り。鮮やかな海色のワンピースに白い編み上げの靴という出で立ちで、娘は湖を眺め黄昏ている。湖の底から汲んだような青い瞳は、心ここにあらずといった風だ。
「機嫌、悪そうですね」
 背後からのどこか陰鬱な声に、細い眉がぴくりと動く。ゆっくりと振り向いて、娘は当然だろうと返した。そしてまた、つんと前を向く。
 受け取った男は長い前髪の下、特別感情の見えない顔で「ふぅん」とだけ相槌を打った。姿は美しい女性ライトだが、口調や態度が見知ったアズのものだ。その違和感を気にもせず、昏守はクッキーを齧る。
 すでにお互い、ライトがアズであることを知っている。知っていることも知っている。周りに事情を知らない犬も居ないからと、男もアズに対する口調で言葉を発する。大して興味は無いのだろうが、立ち尽くす娘の不機嫌を紛らわすつもりらしい。
「『ライト』なんて、いつまで続けるんですか」
「俺は今すぐにでも止めたいよ。ばれたらどうなるかも怖いけど、本当ならレイスは、偽者の恋人なんかで遊んでる場合じゃないんだから」
 生真面目なアズの考えは、細かく言わずとも昏守に通じている。お前がばらすなよ? との脅しが必要ないことも二人共分かっている。仲は悪いが、不思議と理解は早くて助かる。
 良くも悪くも一定の距離を保つのが昏守という男だ。この時は都合がいいことに、神経を逆撫でするようなからかい方はしないでくれた。下手な同意も同情もない、ただ投げやりな「あれで立場は王子でしたよね」という相槌が返ってくる。
 娘は気取らずに脱力気味に肩を下げ息を吐く。どんな目、どんな表情をしているかは昏守からは見えない。だが、ライトが心底憂鬱がっているのが伝わり、敵だった自分に弱みや悩みを溢すほど参っているのだと感じた。ついこの間までは強気に自分を撥ね退けたのにと、昏守は興味を引かれて顔を向ける。
「レイスはれっきとした王位継承者だ。ちゃんと由緒ある家柄の令嬢を妃に迎えて、ゲイム国王の跡を継ぐ。そろそろ真剣に考える時期だって、本人も分かっているはずなのに……どうしてこんなことを続けるんだ」
 王妃様が心配するのも当然だと、ライトは愚痴るように言う。確かに、王位を継ぐにはまだ早くとも、未来の妻を選ぶくらいしてもいい年頃だった。実際、ライトの登場は王子が王になるための準備を始めた、ととられているはずだ。
 それが本当のところはまったくの嘘で、レイスにそのつもりは欠片もない。身軽な「王子の立場」で何かまだ、やり残したことでもあるのだろうか。それとも、誰か心に決めた相手がいて、訳あって言い出せずにいるとか、ライトを盾に誰かを隠しているとか、理由があるのか。
 青い瞳が男を振り返る。深い湖の底から掬ったような青が、金色を真剣に見つめる。敵意のないアズの目は初めて見たかなと、昏守は上目遣いに視線を受けた。
「お前は耳が良さそうだな。暗殺者は情報を仕入れるのも上手いんだろう?」
 表情を動かさないまま、男は小さく溜め息を吐く。
「本職の情報屋ほど広く深くは聞こえませんね。狙う獲物の周辺なら、まぁ」
 彼の答えに満足できたのか、ライトはわずかに顎を引く。そして、堅い顔で質問を続け、昏守は大人しく答えた。
「レイスに忠誠を誓ったのか?」
「いえ。俺はもう誰かの首輪は着けないことにしたんで」
「なら、何でレイスの言うことを聞いているんだ? ユキちゃんのためなのか?」
「さぁ? 次の予定がない俺に、あの兄妹は居場所をくれるから、なんとなく居着いてるんです。あの小娘から受けた恩はもう十分返してますし、いつ消えてもいいと思ってますよ」
「レイスに頼まれたら、今でも暗殺はするのか? 俺に頼まれたら、情報を探ってくれるのか? ユキちゃんに危険が及んだら、守ってくれるのか?」
 目を逸らさずに重ねられた問いから、金色の瞳は疲れたように逃げた。信用に足る答えを、昏守から聞きたがっているのが分かる。それを嫌がった男は音を立てずに立ち上がり、仕草を目で追う娘に背を向けた。
 湖を囲むように広がる森の方を見ながら、ズボンのポケットに手を入れてぼやく。ライトは拗ねるように眉を寄せた。
「気が向いたから、今は言うことを聞いているだけです。あんた逹と絶対の契約なんてしませんよ。勝手に信用して、裏切り者呼ばわりとか聞きませんから」
「それじゃあ安心できないんだ。仲間でも部下でもない奴と、秘密は共有できない」
 あんた潔癖症とか完全主義者とかですかと、呆れたような声色で言う。答えるライトは大真面目で、王子や姫を守ろうと思ったらこれくらい神経質になって当然だと返す。森を見る金色の瞳がすっと細くなった。
 つかつかと昏守の隣に立って、片手をリボンで締めた細い腰に置く。凛とした表情で隣に並ぶと、まるで言うことを聞かない従者に腹を立てたお嬢様のようだ。しかし、男が金髪に縁取られた美貌に目をやることはなく、何かを追うように視線で湖畔沿いに森をなぞる。
 不満そうに娘が眉を寄せ、首を傾げる。それでも金眼は離れない。ただ、昏守は再び感情を平坦にした声で提案した。
「俺はあの犬みたいに首輪は着けません。でも、俺が好きに過ごす自由を認められるなら、一つ約束してもいいですよ」
 彼の妥協案に、青い瞳は意外そうに見開かれる。
「あんた達と仲良しこよしはしないし、こっちから積極的な情報提供もしません。聞かれないことは言いません。でも、あんたにも王子にも姫にも、今後嘘は吐きません。危害も加えません。それを保証してもいい」
「それは……聞かれたことには真実を答える、敵対はしない、ってことか?」
 この約束が嘘なんじゃないか、とは言わなかった。少なくとも、ユキから受けたという恩を返すため、彼は少女を守る素振りを多々見せてきた。敵だったのも、最初の一度だけだ。ユキを暗殺にきたあの時が唯一、敵として牙を剥いた出来事だった。昏守は友好的ではないが、誠実の欠片もない男というわけではない。
 ライトの驚きを含んだ声に、昏守はほんの少しだけ頷いた。よく見ていないと分からない小さな肯定は、約束という束縛を嫌う彼の、精一杯の譲歩なのかもしれない。
 娘は足元に視線を落として、柔らかく微笑んだ。宝石のような爪を並べた指先を口元にやり、笑い声は密やかに。首を巡るペンダントが、溢れる美しい笑みを受け止める。嬉しそうな声で「そうか」とライトは答えた。
 青い瞳がにっこりと弧を描く。彼女は手を後ろに組んで、背筋を伸ばし男の前に立った。さすがに昏守も目をやり、ライトの様子を見守る。本当にアズなのかと疑いたくなるおどけた顔で、少しだけ下から金眼を見上げた。
「嘘は言わないんだな? 分かった。じゃあまず、お前の素性を洗いざらい吐け」
「誰が聞かれたことに必ず答えるって言いました?」
 ぴしゃりと冷たく言い返し、昏守が目線を逸らす。ライトが思い切り眉を寄せて、不満も露に指を突き付ける。
「さっき頷いただろ!」
「真実を答える、ってことにです。答える時には嘘は言いませんよ」
「屁理屈だっ!」
「あー、女みたいにきーきー騒がないで下さいよ。うるさい」
「ふざけるなーっ!」
 遠慮なく暴言を吐かれ、娘は大声で叫び男を睨み付けた。仁王立ちで、本格的に「言うことを聞かない従者に腹を立てるお嬢様」になっている。だが、彼女はあくまで冷静な昏守に……冷静過ぎる男の様子に気付いた。まるで何かを警戒しているみたいだ。
 ずっと湖畔の森から視線を離さなかった。ライトから目を逸らしているのではなくて、彼は何かを見ている。
 ライトは昏守の向いている方を自分でも見てみるが、気になるものはない。怪訝な顔で振り返ると、金色の瞳が意味ありげにこちらを見ていた。声を潜めて問う。
「さっきから何を見ている?」
「兎か狐でも狩りに来たのか、湖の反対を人が歩いていたんです。数は四人、持っているのは弓。それが、こっちに走ってきてます」
 真実を答えるという、元暗殺者の男。彼は黒豹に姿を変える獣人だ、狼になるセシルと同じように五感が鋭い。いや、暗殺者という経歴があることを考えると、セシル以上かもしれない。敵なのかと聞けば、彼はあれは違うと答えた。
「狙いが王子であれ姫であれ、殺すことが目的なら湖を回り込む必要はない。こっちに向かっているのは十中八九『ライト』が狙いで、でも目的はこれも殺しじゃない。こんな見え見えな近付き方で、たかが数人で、護衛も軍人の王子もいるとこに突っ込むなんてありえない」
 ライトが狙われる可能性なら考えたことはある。妃を使って王を操るなんて、ありがちなことだ。ライトを上手く抱き込んで利用したい輩がいてもおかしくない。または、すでにライトがどこかの勢力の手先と思い排除を企むとか、馬鹿らしい理由なら王子に寵愛を受けるライトへの嫉妬とか、いくらでも考えられた。
 今こちらに向かって来ている者達は、何が目的なのか。昏守が静観しているのを見る限り、武器を振り回すような手荒な連中ではないと思われる。ライトとの接触を望むだけの連中と考えていいのか。
 桃色に塗り染めた唇に手を引き寄せ、娘はむぅと唸った。ライトを演じている今のアズとしては、部外者とあまり関わりを持ちたくない。下手な噂を立てられては困るし、そもそもライトの存在感が強まることを個人的に避けたい。
 冗談好きなレイスに余計な口を挟まれない今、都合のいいことを吹き込んで追い払おうか。黙り込んだ昏守と並んで森を睨んでいると、彼が言ったように狩りに来たと思われる服装の男が四人、姿を表した。
 風の魔法を乗せて使う大弓を背負って、先頭を走っているのは恐らく向こうの主人なのだろう。従者らしき三人は小振りな弓と矢筒を持って、少し後ろから駆けてくる。
「あれ、馬を引いてきたのか?」
「そうみたいですね。馬に乗る間も惜しんだか、馬を忘れるほど夢中だったのか」
 すっと姿勢を正して立ちながら、ライトが不思議そうに首を傾げる。まだ声なんて届かないが、囁くように溢れた疑問には感情の薄い小声が答えてくれた。律儀に返された言葉に、ライトは昏守の瞳を見上げる。
「お前、なんでそんな平然としてるんだ? 敵じゃないって断言した根拠はなんだったんだ?」
 大急ぎで、息を切らして走ってくる男達に弓を構える素振りはない。そもそも魔法を纏わせて使えば、あの大弓なら森を出ずにこちらを撃つことができる。見て分かる状況、それでも昏守が落ち着き払っているのが引っかかる。彼らに敵意があるはずがないと知っていたみたいだ。
 湖畔で優雅に佇む娘を演じながら、ライトは柔らかく見える微笑みのまま、瞳だけで男を睨んだ。聞かれなければ言わないのだ、この男は。有益な情報を得るために、聞き方も考えねばならない。
 昏守はそよ風のようにライトの視線を受け流し、使用人を装って半歩下がった。お嬢様の不機嫌をものともしない使用人は、駆けてくる男を見据えたまま言葉を溢す。
 情報屋ほど深く広く知っているわけではないと彼は言った。しかし、耳の良い暗殺者は身近な者に関する情報はきちんと押さえている。その内容に、ライトはビシリと身を強ばらせ動けなくなった。
「コール・ベレディカ。今、小麦の流通を取り仕切る商家ベレディカ家当主の次男で、王子がライトを連れ出した夜会にも参加していました。簡単な話がライトの追っかけをやってる男です。ライトを嫁に欲しがることはあっても、殺しにはきませんよ」

 魚が行ったり来たり、蒼い瞳も行ったり来たり。真紅と蜂蜜色の瞳は、ユキの様子を見て楽しげに弧を描く。
「随分大きな魚がいるんッスね」
「そうだな、探せばお前を丸呑みにできるやつもいるんじゃないか?」
 楽しげな表情の意味の違いに、セシルが三角の耳をピンと立てて顔を強張らせる。魚を見ていた少女も振り返って表情を固め、不安そうにセシルの袖を握った。上機嫌な声が高らかに響く。
「二人して冗談通じないんだから、笑っちゃうな。大丈夫だユキ。ユッキもセシルも、デカイ魚が出てきたらちゃんとお兄様が守ってやるよ」
 巨魚なんているはずがない、という否定がないことに少年の冷や汗は引かなかったが、少女は兄の力強い言葉に安心したようだ。小さな舟を這うように移動して、レイスの腕にしがみつく。遊び用に質を落としたシャツの胸元を握られると、余程嬉しいのか、男はがばりとユキを抱き締め頬擦りを始める。
 だが、普段に比べると早々と彼はユキを解放した。膝に少女を座らせて、それは愛しそうに紅い瞳を細め笑む。軍人としての彼を見る機会が多かったセシルは、こんなに優しい顔をできる男だったのかと少なからず驚いた。
「ユキのことは、俺とアズが守るよ。約束したもんな?」
 誰と、と少年が問い掛けると、ユキが振り向いてセシルに気弱な笑みを見せた。どうせユキと、なんて言われると思っていたのに、聞いてはいけなかったのかとセシルは言葉を探して押し黙る。レイスは微笑んだまま「魔法使いと騎士様」と答えた。そして、今思い付いたというような声を上げ、いつもと同じ悪戯な笑顔でセシルの耳を摘まんだ。
「あ、お前さ、もし夜の国の王家に婿にこいって言われたらくる?」
「え?」
「いやな、ユキのお婿さんになれって言われたらなる? って」
「え……えぇっ!? いや、あの、なんなんッスかソレ!?」
 摘ままれた耳をけばけばにして、ズボンから生えたしっぽをぼさぼさにして、セシルは裏返った声で叫ぶ。膝に乗せられた少女は、兄が少年を虐めていると思ったらしく、小さな手で犬耳から指を外そうとする。
 動揺に蜂蜜色の瞳は宙をさ迷い、薄ぼんやり理解したレイスの言葉に頬を赤く染める。何か意図があるのか、単にからかわれているのか。耳が解放されると舟の隅まで逃げていき、セシルは呆け顔をレイスに向けた。
 レイスはといえば、この手が悪いと細指に手を握られて、溶けそうな笑顔でユキを見ている。対するユキは頬を膨らませて、少々機嫌が悪い。「それも冗談ッスよね?」と、セシルは何とか口にした。
「ああ、まだ冗談だと思っててもいいけど、俺は結構真剣だぞ。俺的政略結婚計画にお前は適任だからな。昏守は俺の言うこと聞かないし、敵を増やしそうな性格してるし。何より年が離れてる、ありゃだめだ」
 膨らんだ頬を優しく突きながら、彼は何でもないような軽さで喋り続ける。
「俺は生まれた時から政治の荒波に晒されてる。今さら嫁が寝込み襲う奴でも、誰々を殺してv なんてねだる奴でも、まぁ驚かない。王座は譲らないし、誰の指図も受けない自信がある。でも、ユキは違う」
 御機嫌斜めな少女の銀髪を撫で、ゆっくりと溜め息を吐いた。
「今は俺もアズも自由だから見ていてやれる。でも、俺が王になった後は多分、妹を構う暇はそう多くない。馬鹿共が大人しいユキに近付いて手玉に取るのは容易いだろうな。そんな時に立場の弱いただの護衛兵士が、どれだけユキを守れるよ? お兄様は心配で王様になれません」
 姫の行動に口出しすれば王族に取り入る策略者を、言い寄る官僚に暴言でも吐けば反逆者を、馬鹿みたいな嫌疑をかけられて護衛職を解かれかねない。書類一枚でセシルはユキから引き剥がせてしまう。主人のユキは強気に物を言える性格ではないから、彼を庇うのは難しいだろう。レイス達の目が届かなければ護衛の立場は頼りない。
 だが、たかが護衛がもし姫と対等な立場に……夫として親族にまで成り上がれば、彼女への甘言も嘘も振り払って、自分の行動に関して周囲には文句を言わせないということもできる。それがこの国における「王族」という肩書の力だ。レイスや彼の母親はこの特権を思う存分に振るう。
「夫婦で意見交わすのは当たり前のことだ。お前が窓口としてうるさい外野を締め出せばいい。ユキは王の血を継いでないが、それでも今はこの国の姫だ。同じように生まれが王族でなくても覇権を狙えるから姫の夫の席を狙う奴がいて、俺は先にそこを埋めちまおうかと考えてる。勝手なことだけど、俺はユキに、絶対に味方だと言える旦那を見付けてやりたい」
 お前は候補の一人だと、目を向けずに男は言い切った。口を引き結んで黙ったまま、少年は冗談ではないのだと悟る。妹を守るために有効だと感じれば、彼はこの計画を推し進めるだろう。見知らぬ男にやるくらいなら、まずは可愛がっている自分の部下にと。
 突然の話に言葉もなく兄妹のやり取りを見ていると、レイスから顔を背けたユキと目が合った。しばらく何も言えずに、ただ澄んだ蒼い瞳を見つめると、茶化すような声が降ってきた。
「もしこの話を聞いて、一生かけてユキを守りたいと思えたらすぐ言えよ。親父達にも紹介するから。政略結婚なんて幸せな話じゃないし、愛情を持って側にいてくれるならそれが一番いい。あ、でも今後ユッキーを意識して鼻の下伸ばしたりしたら、お前それはグーパンチな☆ あともう一つ言いたいんだけど」
 拳を握って爽やかに笑うと、また叩くつもりだと思われたようで、膝に座った少女から優しいビンタが飛んできた。男は大袈裟にやられたふりをして騒ぎ、舟に寝転んで少女を腹の上に乗せた。青ざめて口が閉じられない少年を見上げ、レイスは意地の悪い笑顔を見せる。
 色々あって頭が混乱しているセシルに、悪い兄はやっつけたとユキが頷いて見せた。セシルは曖昧に頷き返し、レイスの紅い瞳と視線を合わせる。もうこれ以上何を驚くことがあるのか。放心状態で待っていると、彼は舟の縁から手を出して外を指した。
「俺のライト嬢に虫がたかろうとしてんの、何で気付かないんだよ? その耳と鼻は飾りか? 飾りなら耳引き千切るぞ?」
 にへらと笑って見せた男に、セシルは頭が真っ白になった。

 やって来た男達はとても紳士的だった。コール・ベレディカと名乗った青年は、鳶色の髪と瞳をしていて、派手さのない落ち着いた見た目と雰囲気は好感が持てる。彼は突然声をかけた非礼を真っ先に詫びると、手短に自分の素性や経歴、今日は雉狩りに来ていたこと、その途中で娘の姿を見付けて挨拶に来たことを説明する。
 コールはどこか狼の獣人のセシルに似た愛嬌があり、礼儀正しい態度と相まって好印象だった。ぎこちなく彼等を迎えたライトだったが、昏守の余計な情報さえなければごく自然に笑顔で対応できたろう。ただ、残念ながら上手に笑うことはできない。
 強ばったライトの表情を、コールは背後に控えた従者に怯えているものと思ったらしい。弓は全て地面に置くよう指示を出し、丁寧に一人一人紹介してくれる。彼の気遣いに学べることは多そうだと考えながら、自己紹介の隙がなかった娘は一段落ついたところで背筋を伸ばす。
「丁寧な御挨拶ありがとうございます。私はライトと申します。こちらは昏守、さん。今、この湖に浮かべた舟には夜の国の王子、であられるレイス様と妹姫のユキ様がいらっしゃって、その護衛の方ですわ。今日は皆さんと舟遊びに来た、んですの」
 淀みなく言うことはできなかったが、男達の目には「人見知り気味の娘が一生懸命に挨拶をしてくれた」ように見えた様子だ。微笑みを溢れさせて「そうでしたか、あちらには殿下も」と頷いている。ただ、コールの笑みに含みがあるのを昏守は見逃さない。
 コールを「ライトの追っかけ」と説明したが、それがただの好意でないのを彼は知っている。美しいものを単にもてはやし、綺麗だ好きだと騒いで追い駆けて。そんな可愛いものと程度が違う。
「ライト様のことは先の夜会で遠目に拝見しておりました。ただ、お声をかける前に騒ぎが……。あの後、もう一度お姿を見られたらと、叶うなら御挨拶をと思っておりまして」
 少しの距離を持って、小さく身振り手振りを交えて話す顔は、それこそセシルと似て無邪気な少年のようだ。それなのに、目は隙を探して鋭く光っていた。彼の想いは、ただの好意から横暴な恋慕に変わっているように見える。
 昏守がいるから空いているこの距離は、お守りがいなければすぐに詰められ、ライトは拐われてしまうかもしれない。そう護衛を警戒させる気を発していることに男は気付いていないし、演技で手一杯の娘も目を見ないから気付かない。静観を続けるか、ちょっかいを出そうか、長い前髪の下から昏守は二人を観察する。
 他愛ない、それでいて「ライト」を探る会話。娘は答えにくい「ライト」の家柄やレイスとのことを必死に当たり障りなく答えようとして、次第に違和感を持つようになったらしい。ただの挨拶ではなく、まるで聴取を受けているようだと娘も気付く。
 相手と話し続ける理由が分からない、コールの「ライト」に対する好意を昏守に聞かされて疑心がある。困り顔で王子が待っていると、もう放して欲しいとにおわせた。だが、男はそれなら王子にも御挨拶をと食い下がる。
 昏守には、王子に喧嘩を売ってでもライトを得たい、コールの必死さが見えた。豪商ベレディカの子とはいえ、たかが商家の冴えない次男坊が、あの地位と美貌と軍才とに恵まれた男に敵うつもりなのか。いや、勝ち目がないからこそ無謀なことをするのかもしれない。なにせコールは家を負わない立場にある、好きな女を巡って問題を起こしても、失うものは少ない。
 ライトがただならぬ男の意思を感じたようで、どう対応したものか言葉を探している。アズからすれば「余計なことするな、ほっといてくれっ!」というのが本音だろうが、お引き取り願う理由が思い付かない。レイスの従者のアズなら自分が伝言を預かると言って煙に巻くのに、アズの親戚筋の娘に強い言葉は言えない。
「ライト」がレイスの嫁の肩書きを持つなら、ゲイム国王の后のように「愚民が気安く声をかけるな」なんて、強気に撥ね退けたりできただろうか。鬱陶しげに言葉を濁しながら、そんな噂の種はどうあっても撒けないなと、無駄な思考を断つ。そして、コールが「王子はまだ戻られませんね」と笑みを向けてくるのに、「そうですね」とそれしか返せず、彼女は湖を振り返るふりをして昏守を見た。
 レイスに会わせたくない、これ以上こいつと話していたくない、でも追い払う理由が見付からない。何とかしろと、アズにしてはかなり投げやりなことを目で訴える。昏守はコールにレイスをけしかけるのが愉快そうだと考えていたが、散々アズの面白い表情を見てきたからと、目を細めて小さい息を吐いた。
 邪魔なものを退ける自然な動きで、長い前髪を耳にかける。人前に晒されることの少ない昏守の顔に、ライトは目を丸くして見入る。陽を知らない、表情の薄い白い顔に瞳の金だけが色鮮やかだった。レイスが派手な美形なら、これは飾り気のない冷えた美しさ。
「お嬢様、ベレディカ様にはこのままお引き取り頂いた方がよろしいのでは?」
 普段とは全く違う、はっきりと切れのよい声だった。恭しく胸に手を当て腰を折り、従順な執事のように男は進言する。ずっと黙っていた護衛役の言葉に、ライトの背後ではコールが不快そうに眉を寄せた。
 娘の驚きの表情に背筋を伸ばし、昏守は彼女の青い瞳を静かに見据えた。まるで、社会に無知なお嬢様を諭す教師のような、誠実な態度にライトはぎこちなく頷く。昏守は笑むことはせず、不満顔の青年に目を向けた。遮るものなく鳶色の瞳と絡んだ男の視線は、殺気を感じるほど鋭いものに変わる。
「レイス王子はライトお嬢様に会うのをそれは楽しみにしておられました。お嬢様にとっても今日は大切な日。妹姫様もいらっしゃる身内のみを集めたこの席に、あまり水を注すものではありません。貴重な休日なのです。ベレディカ様、御挨拶は私から確実にお伝えしましょう。もし直接王子に面会を望まれる理由がおありでしたら、後日改めて、城にお出で頂けるよう手配致しますが、いかがでしょう?」
 真冬の冷たい月の如き金眼に、青年は思わず身を震わせ息を呑んだ。空気の読めない奴だと、王子は「ライトのついで」で挨拶する相手ではないぞと、男は真っ当な内容で引き下がるよう脅す。
 丁寧な言葉と裏腹の、ただの使用人と思えない威圧感に、コールは声もなく口を開閉する。まさかこんなすぐ目の前に、勢いをごっそり削がれる相手がいたなんて。王子を相手に女を奪い取ろうと意気込んでいた気持ちが、急にひんやりと醒めてくる。
 家名に泥を塗るとか、親に恥をかかせるとか、自分が罵倒されるとか。そんな敗北なら何てことはなかったのに。今、このままライトを追おうとしたら、なくすのは「命」なのではないかと感じた。こんな場所で、王子付きとはいえ使用人が殺人を? と現実的には首を捻ってしまう。が、黒染めの男が向けてきているのは敵意と殺意だ。
「ベレディカ様?」
 追い詰めるように、心底丁寧な低い声が青年を呼ぶ。ライトは茫然とした顔でただ昏守を見ているし、連れていた自分の部下達は鋭い視線をとばっちりで受けて顔色が青い。場を仕切っている使用人の男はコールにしか発言を許しておらず、しかも、答えていい内容は一つだけだった。
 鳶色の瞳には恐怖を浮かべ、額に浮いた汗を拭うことも忘れていた。掠れた声で、冷静を装うことに失敗しながら、青年は昏守を避けライトに話を振る。
「これは、申し訳ないことを。楽しまれているところを、邪魔した上、出過ぎたことをしてしまった。そうですね、今日はここで失礼しましょう。殿下にお目通り願うなど、厚かましいことを申し上げたこと、どうか忘れていただけませんか」
 明らかな動揺の様を見て、ライトは笑顔で答えるべきか迷うように、曖昧に「ええ」とだけ答えた。彼女がかしこまって少し首を縮め、ちらりと昏守を見る。すると、彼は無表情にコールを見たまま黙っていた。
 殺気を収めた静かな立ち姿を何となく見て、ライトは青い目をコールに戻す。背筋を伸ばして、使用人より半歩ほど前へ出て、当たり障りのない挨拶を口にした。
「気を遣わせてしまって、こちらこそ申し訳ありません。雉狩りをされていたとおっしゃいましたか。立派な雉が捕れるように、お祈りしておりますわ」
 特別な笑顔は作らなかった。言うなら「営業用」の微笑と口調で、礼を述べるコールを見送る。彼らは逃げるようにそそくさと離れていく。ただ、コールだけは何度か振り向いてライトを見ていた。
 不意討ちだから近付けた深窓の令嬢は、もう次に会うのは容易くない。ここで拐いたい気持ちは強いが、あの美しい娘を王子は手放すつもりがないとみえる。放つ気だけで人を怖じ気付かせる護衛が張り付いていては、コール如きに手は出せない。
 名残惜しく振り向く青年の苦い気持ちなど知りもせず、ライトは素っ気なく背を向けた。森へ入るまで彼を見ていたのは、彼女の影のように立つ使用人の方だった。

「後ろ髪を引かれる顔してましたね」
「いやいや、見間違えだろう。変装がバレないのはありがたいけど、コールは女性を見る目がなさすぎだ。『ライト』はそんなに美人じゃないぞ」
 すっかり口調がアズに戻り、うんざりしたように吐き捨てる。呆れた声で「そこらの女が聞いたらキレますよ」とぼやく。ライトは馬鹿にして男を鼻で笑い、「お前も見る目がないな。でも追い払ってくれたことには感謝しよう」と返した。彼は言い返すことを諦めたようで、溜め息を吐いて黙る。
 ライトは前髪を戻す昏守を見て、聞けば答えるだろうかと首を傾げて疑問を口にする。自分の顔に関心はないが、人のことは気になるようだ。相手も似たようなものだから、答えは事務的だった。自分の容姿を見る目のなさ、なら互角と言っていい。
「その鬱陶しい前髪、上げておけばいいのに。結構いい男じゃないか。何で隠すんだ?」
「仕事上、秘密主義が重要だから。こんな顔でも覚えられると不都合が多いんです。でも相手を睨むには邪魔だったから上げたんです」
「ふぅん。あ、俺もレイスも手先は器用だから、切りたくなったらいつでも切ってやるぞ。目も悪くなりそうだしな」
 あまり人の話を聞いていない娘に、昏守はまともに答えるのは無駄だと思ったらしい。再び溜め息を吐いて黙り込んでしまう。そのまま会話を避けるように顔まで背ける。
 彼の態度を「からかいに負けを認めた」と見たライトは、上機嫌で湖畔の敷物まで戻って冷めた紅茶を口にする。御機嫌ついでにクッキーを頬張っていると、血相を変えたセシルが走って戻ってきた。慎ましいライトが嬉しそうにクッキーを口へ詰め込んでいる姿に、少年は立ち止まって蜂蜜色の瞳をまん丸くする。
 急いで口の中のものを紅茶で押し流し、顔を真っ赤にした娘は居心地悪そうにそっぽを向く。そのまま、若干上擦った声で言う。
「そんなに慌てて、ど、どうなさいました?」
 女性は甘いお菓子が好きなもの。照れる様すら美しいライトに、なんて可愛い人だろうとセシルは頬を緩める。だが、自分が何故慌てて来たのか思い出し、辺りを見回してから強く問う。
「そうだ! さっきここに人が来てませんでしたか? 何か言われたりされたりしてませんかっ?」
 彼女のそばには一応護衛役に昏守がいたが、セシルは彼を信用していない。ぼんやり湖を眺める男を一睨みして、少年はライトに首を傾げて見せる。頭から生えた耳がピクリと動いたが、後ろからの足音は兄妹が来たからだ。
 横目に見れば、駆けてきたユキが昏守に遠慮がちな笑みなど見せている。彼は表情を変えず、しかし珍しいことに少女の手を自ら取っていた。
 ふと湧いた違和感に顔を向けると、掌や手の甲、腕に傷か何かを探しているようで、異常がないと分かるとあっさり手を離した。ユキも不思議そうに男を見上げたが、昏守はあらぬ方を向いてそれきりだ。
 セシルは特には何も言わず、ライトに顔を戻した。娘は少年の視線にぎくりと肩を震わせ、迷いながらゴニョゴニョと言い淀む。疑問符を浮かべた顔でセシルが口を挟もうとした時、事情を知らないはずの男が珍しく天の声を降らせた。
「ライト嬢、誰か来てたみたいだけど、あれ迷子? もう帰った?」
「え、えぇ! 近くの森で雉狩りをしていたという方達です。彼が対応して下さいましたわ」
 ぱっと顔色を明るくして、ライトは何度も頷く。ほとんど嘘のないことだから、すらすらと言葉が出た。レイスが戻ったことを喜ぶような彼女の表情に、セシルは余程仲が良いのだなぁと思う。そして、彼女が無事で良かったと胸を撫で下ろした。
 レイスもライトの言葉に疑問を持つことなく、「そうか。ありがとうな昏守」と労いの言葉を送る。受ける男は何か言いたげにライトやレイスを見ていたが、短く「いえ」と素っ気なく返して黙った。

 その後はまたおやつを摘み、ユキがセシルの言葉を借りながら、見てきた魚のことをライトに話した。昼にサンドイッチを食べて、また少し遊んで、一行は城へと戻った。帰路の途中で、ライトが一人別れて魔法で帰って行くのを、セシルとユキはアズに向けるのと同じ尊敬の眼差しで見送った。
 馬車が城に着くと、いつもより疲れた顔のアズと、彼に続きユキ付きのメイドが迎えに出てきた。仕事が余程忙しかったのだろうと、馬車を下りたユキは心配そうに魔法使いの手を取る。彼は「お帰りなさい」と優しく笑ってくれた。
「お帰りレイス。楽しかった?」
 若干棘のある言い方で迎えられた王子は、めげることを知らない笑顔でユキを抱き上げる。
「ああ、楽しかった。ユキも楽しかったよな? ライト嬢とたくさんおやつ食べたし、俺と舟から魚見たし、なぁ?」
 少女は蒼い瞳を線にして笑い、こくりと頷いてアズにも笑顔を向ける。レイスには少しくらいなら辛く当たれるが、ユキを盾にされると嫌味の一つも言いにくい。アズは「そう、良かったね」と仕方なく準備していた文句を飲み込んだ。
 ただ、ユキを寝かし付けた後には遠慮しないと、少女を下ろした男を一瞬睨む。御機嫌の男は知らん顔で後ろを振り返り、馬車や荷物の片付けを命じた。すでにメイドとセシルが荷物を下ろし、手綱を持たされた昏守は一人で月を見上げている。
 兄妹が手を繋いで部屋に向かうのを、荷物を抱えたアズとメイドが追う。ユキはセシルも連れて行きたそうに何度か振り返ったが、少年は仕事が終わったらすぐ行きますと笑顔で彼女達を見送った。
 さっさと馬車を片付けようと、セシルは昏守から手綱を取り返す。お役御免の男がふらりと立ち去ろうとするのを、少年の声が呼び止めた。普段なら昏守の自分勝手など無視するところだが、頭の隅に引っ掛かって離れないことがあった。
「昏守さん、さっきユキ様の手を見てたの、何でですか」
 前髪の下でちらりと向けられた金眼が、鬱陶しげに細められる。だが、特別責める言い方をしなかったせいか、溜め息の後に彼はきちんと答えた。
「アレルギー反応が出てないか、確認したんです。庭に出た時に時々痒がるでしょ。アズって魔法使いは知らなかったみたいですけどね。気になったんで」
 言い方は相変わらず素っ気ないが、その答えにセシルは驚いた顔をする。人を気にかける神経が備わっていたのかと、少し相手の見方が変わる。そして、引っ掛かりが取れて現れたのは彼の優しさに対する安堵と、その反対の不安だった。
 余計なことを考えて、余計な言葉が溢れる。
「ユキ様のこと、好きなんですか?」
 昏守は言われたことの意味が分からなかったのか、考えるように瞬きを繰り返した。少し間を置いて、理解の色を瞳に見せ、彼ははっきりとした表情を顔に出す。セシルを虫でも見るように冷たく見下ろすと、心底嫌そうに眉を寄せた。
「それはあんたでしょ?」
「え……えっ? 違っ、何でオレっ」
「いちいち噛み付かなくても大丈夫ですよ、俺に幼女を好む趣味はありません。あんたの御主人様はあんたのものです」
 セシルが返す言葉を探す間に、男は隙なく言い続ける。機嫌が悪いのか、昏守は軽口を叩いていたぶるように少年を追い詰めた。
「大好きな御主人様が他の男に触れられるの、嫌でした? ならべったり張り付いて見てて下さいよ。あんたと違って俺は子供の相手が嫌いなんです。年近いんでしょ、お似合いじゃないですか。ああでもあんた、せっかく王家のお姫様に懐かれてるのに、『得体の知れない女』なんか気にしてると、それこそ他の奴にとられますよ」
 毛を逆立てて余計な御世話だと吠えようとしたが、それを察した男は瞬き一つで黒豹に姿を変えた。長い毛の豹はうるさそうに耳を折って、追撃を許さない早さで逃げてしまう。怒りとも恥とも照れとも言える感情が、捌け口を探して喉の奥でぐるぐると唸り声になる。
 結局、盛大に「ちくしょーっ!」と叫んで馬を驚かし、暴走した馬車を止めるのに大騒ぎを起こした。レイスに笑われ、虫の居所が悪かったアズには少なからず責められ、最後にユキが頭を撫でて慰めてくれた。

 真剣な顔つきで、ひどく深刻な声で、二人の男は向かい合い話している。内容は王子の公務についてで、明日の視察場所と日程の確認だった。普段ならもう少し気楽に、王子本人などお菓子を摘まみながら話しているようなことだ。
 それがこうも堅苦しいのは、アズが撒き散らしている心配や懸念の空気のせいだろう。先日のピクニック以降、目立った「ライト嬢」の噂話は聞こえてこない。昏守に釘を刺されたコール・ベレディカも口を開いていない様子で、もう世間は王子の恋の話を忘れつつある。
 しかし、王妃の目は相変わらず厳しく、またいつ「ライト嬢」が引きずり出されるとも限らない。次はもう、この嘘吐きの嘘も通らないとアズは考えている。だから、固い覚悟が空気にも出てしまう。
 意を決し、息を深く吸う。深い湖の底から掬ったような青い色の瞳が、ワイングラスを覗いたような真紅の瞳を見据えた。
「レイス、もうライトには会わない方がいいと思う」
「アズ、俺は定期的にライトの顔を見ないとじんましんが出そう」
 大真面目なやりとりの後、レイスは御機嫌の様子でにっこりと微笑む。対してアズは、表情を固めたままこめかみをひく付かせて怒りを堪える。
「本当に、いい加減教えてくれ。何がしたいんだ? 幼馴染みにも言えないことか?」
 幼馴染み、という一言は目一杯の責めの言葉だ。王子と側近の魔法使い、この立場を認識していなかった子供の頃は、二人はただ仲の良い友達同士だった。幼馴染みとして親しくあることを普段から強く求めているのは、アズではなくレイスなのに、隠し事など許されると思うのか。いつもの仕返しとばかりに問い詰める。
 一呼吸おいて、王子の私室、デスクの上に溜め息が一つ乗る。それは普段おちゃらけている男の溢した、重い吐息だった。
「そうだな、やっぱりアズには話さないといけないかな。俺は昏守の言葉をずっと気にしてんだ。ファントムとゴーストがそうだったけど、穏健派はユキで俺の舵取りをしようとしてる。父親に比べて好戦的な俺は、王位に着けばまた戦争を始めると思われてる。それを阻止したい奴らが、ユキの口で俺に指図したがったり、ユキそのものを女王に推そうとしたり、な。ずっと狙ってる。もう誰もあいつをキルだと疑ってない。それはありがたいんだけど」
 憂いに沈んだ目など、見たのはいつぶりか分からない。アズの怒りはさっと引いて静まる。デスクに肘を着いて喋るレイスに、黙って小さく頷いた。
「まだ側にいてやれるうちに、ユキの周りを固めたいんだ。ユキを隠すことも考えたが、ずっと一人で閉じ込められてたあいつには、賑やかな家族を作ってやりたい。ユキには笑顔を、愚民共には諦めを。納得いく環境が整ったら、ライトとのおままごとも終わりにするよ。俺はゲイム国王の跡を継ぐ。夜の国は昼の国と過剰な敵対も融和もしない、孤高の国になる。誰からも侵食されず、自分の誇りと愛すべき者達を守る、ただそれだけの国。俺の箱庭で、俺のお姫様は自由と幸せを手にする」
 深い紅がじっと見ているのは、アズの目ではなく未来の風景らしい。だが、レイスはしばらく黙った後、ぽつりとアズに命令を下した。魔法使いは小さく笑った。
 少し嬉しそうな声は、悩みが解決したためだけではない。レイスは不謹慎で不真面目で、自己中心的で嘘が癖で。そのわりに部下や身内からは好かれやすい性質がある。彼は仲間に甘く、仲間のためなら何もいとわない。それをアズは好ましく思いながら、隠さずに早く話してくれたら自分も力になるのにと思う。
 レイスが動くのには大それた理由などない。ただ、ユキを身内と認め好感を持ち、彼女の幸福を望んだ。もう一つ加えるなら、兄からのヤキモチだ。かつて少女を自分に託した者達に、自分は敵わないと思い知らされる瞬間がある。それが腹立たしく、意味もなくむきになる。だから、
「俺は『ヒュート』を越えたい。ユキは今でも奴に関することでは見たこともない顔をするんだ。あの野郎、まだユキに寂しそうな顔なんかさせるんだぞ。ちくしょうめ。お前もさ、『リライ』を越える魔法使いになれよ」
 意地を張って、もう届くはずのない挑戦状を叩き付ける。
 亡き者は未来を持たないからこそ、残された者の心に強く思い出を刻んでいく。だが、未来を持っている者は過去を色褪せさせることができる。過去は変わらず消えることもないが、振り返らなければ思い出すことは減る。そして、鮮やかな新しい記憶は、目を前へ前へと誘う。振り返る隙なんて与えない。
 ユキの前では平気な顔をしていても、可愛い妹が慕う相手はそれなりに恨めしいようだ。彼女の騎士への想いを少し邪魔して、もっと自分に向けさせたい。こんなヤキモチ焼きでは、ユキの夫はさぞ義兄に苦労することになるのだろう。
「レイスは、ユキちゃんに誰よりも慕われる騎士になりたいの?」
「騎士なんて、奴と同じは嫌だ。目指すところは素敵でイケメンで最強な、ユキちゃん憧れの王子様……や、王様かな?」
 ふて腐れた言いぐさに、アズは笑いながら一つ頷いて答えた。
「憧れね。じゃあまず、セシルを苛めるのを止めないとね」

−終−

2013.11.27


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